日系カナダ人アーティスと人名録

オンラインの日系カナダ人芸術家人名録にようこそ。この人名録はアイコ・スズキが1994年に編纂し出版した「芸術分野の日系カナダ人」と「日系カナダ文化の資料集」を基にしています。人名録のオンライン化にあたり内容を拡充してあります。人名録には日系人強制収容時代以前に活躍したため、または時に埋もれたために世間によく知られていない日系カナダ人芸術家も収録して、この人達の功績を忘れないようにしてあります。これと同時に現在活躍中の芸術家も収録して、お互いに連絡できるように、新しい仲間を見つけられるようになっています。

このサイトはいろいろな方法で名前の検索が可能です。芸術家は分野別に記載されています。分野は舞台芸術、視覚芸術、メディア芸術、文学、工芸、伝統芸術です。芸術家は住所によっても分類されています。キーワードによる検索をすると芸術家の名前、それぞれの芸術家のページの中のキーワードが探せます。すでに死亡している芸術家については略歴と一世、二世などの情報がかいてあり、これらの情報から活躍した時代がわかります。

この人名録は常に新しい情報を加えています。また過去の芸術家、現在活躍中の芸術家を追加しています。この人名録を作成するにあたりパウエル・ストリート祭り委員会、トロント日系カナダ人文化センター、全カナダ日系人協会が協力しました。人名録の管理はパウエル・ストリート祭り委員会が行っています。新しい芸術家はここに登録してから自分についての情報を人名録に追加することができます。

どうして人種に基づいた、特に日系カナダ人だけの芸術家人名録を作ったのかという質問があるでしょう。日系カナダ人の歴史は喪失、離別、再会の物語です。勇敢な日本人が新しい生活を求めてカナダ西海岸に来ました。漁業、林業、農業で働き、生活も楽になり、西海岸に幾つもの日系カナダ人社会が誕生しまた。そして二世、三世がバンクーバーのパウエル・ストリートのような日本人社会で生育しました。しかし太平洋戦争が起こりました。

カナダが日本に宣戦布告をすると、カナダの反日感情が高まり、連邦政府はこの反日感情に圧倒されて過酷な人種差別政策をカナダ市民である日系カナダ人に対して施行しました。2万2千人の日系カナダ人が家と生活を奪われて遠くブリティッシュ・コロンビア州内陸の強制収容所やアルバータ州とマニトバ州の砂糖大根農場に追放されました。

戦後に日系カナダ人はロッキー山脈の東の地域か日本に戻るという選択を強制されたり、またカナダ全国に散り散りばらばらになって、見知らぬ人たちの中で新たに生活を立て直すことになりました。この経験は二世を特に傷つけました。日系カナダ人であることが恥であるような社会意識、持ち物をすべて剥奪された経験だけでなく、親である一世が築き上げた生活をまたはじめからやり直さなければなりませんでした。そしてこのような状況の中に生まれたのが三世です。一世と二世は三世を保護して自分たちのつらい経験を話しませんでした。しかし、三世は一世、二世に質問を始めました。

そしてこの質問は日系カナダ人三世を政治的に活動的にし、また自らのアイデンティーを求めて日系カナダ人の文化のルネッサンスへと続きました。三世が育った時代は日本からの新しい移民が増加した時代と重なります。そして三世と新移民との交流が日系カナダ人に新しい価値観とアイデアをもたらしました。新しい移民は新移住者とよばれますが、この人名録に新移住者芸術家がたくさん載っているように、カナダの芸術分野に大きな貢献をしました。また日系カナダ人にとても多い人種間結婚から生まれた人たち(混血児、ハッパなどと呼ばれることもありますが)もまたカナダの芸術に大きな貢献をしています。

一世、二世、三世、四世という世代別の日系カナダ人の分類は大雑把ですが、それぞれの時代の特徴を表現しています。

日系カナダ人のアイデンティーを形成する一つの要素としての日本文化は、芸術的にとても豊かで洗練されています。カナダの現在の芸術形式に対応する伝統的な日本の芸術形式があります。例えば、演劇に対応する歌舞伎と能、ダンスに対応する武道と踊り、絵画に対応する墨絵、工芸に対応する陶器と織物、文学に対応する俳句と短歌、建築とデザインに対応する庭園美学、音楽に対応する太鼓と尺八などです。また日本に特有な生花、茶の湯、書道などもあります。

しかしこのことは日系カナダ人芸術家がみんな日本の伝統芸術の影響を受けているということではありません。中にははっきりと日本の伝統芸術に反抗している人や無視している人もいます。しかし、日系カナダ人芸術家にとって日本の伝統芸術は避けて通れないものです。初期の一世の詩人は日本と異なる厳しい自然の中で俳句を読むことを学び、視覚芸術家は禅の自然に対する感受性をその作品に活かしています。日系カナダ人芸術家が日本の伝統文化から学んだだけでなく、カナダ人芸術家もまた日本文化を学び、日本から来た先生から知識と技術を会得しました。以前に印刷された人名録には日系カナダ人以外のカナダ人芸術家も入れてありました。そしてこのオンライン人名禄も同様にしています。

 

人生…実にすべての人生が詩である。詩を生きているのは我々だ。無意識に日々をひとつの劇のなかのシーンのように、しかも粉々にできない全体のなかに、詩は我々を生き、我々を構成する。これは古い常套句の「あなたの人生を芸術作品にせよ。」とは遠く離れた概念である。我々自身が芸術作品なのである。ーしかし我々は芸術家ではない。

ーLou Andreas Salome, 精神分析医(1861-2037)


日本

日本

これ以上言えないほどに日本と言い尽くせば

日本はほんとうになると思いますか?

ーDavid Kenji, Fujino芸術家(1945-2017)


1994年に日系カナダ人芸術家:人名録は主にアーティストである故アイコ・スズキ氏の尽力とリーダーシップにより発刊された。その公式名はJapanese Canadians in the Arts: A Directory of Professionals;で、日本語では日系カナダ人:芸術家人名録である。表紙は簡素で、灰色、白、赤、そして黒という配色である。字体は‘Century Gothic’を使い、題名のすべては大文字で最初のそれぞれの文字は赤、それに続く文字は白である。日本語の題名はカタカナと漢字で書かれ, Canadaは黒で-カナダ-と表記されている。Lotus Miyashitaがこの本をデザインした。その表紙の色調やスタイルはこの本の性格を表しているようである。カナダと日本の国旗の共通する赤と白である。黒と白は言うなれば確かさ、断定の色と言えよう。そして灰色と言えばどちらとも言える中間を表す色と言えるかも知れない。

約190名の芸術家が当時の人名録に掲載されている。それは彼らが自分の名がこの人名録に掲載されることを承諾し、他のアーティストとジャンルが違っていても、同じであっても互いに繋がることに同意したのである。私自身もその一人であり、私はその人名録に加わりたいと強く願った。しかし私は幸運にもほかの文学者の同人、Joy Kogawa, Roy Kiyooka, Gerry Shikatani, Terry Watada, そして亡くなったDavid Fujinoとも繋がっていた。人名録が一冊送られて来たとき、私はページをすばやくめくり自分の名前や同じジャンルの人々の名前を捜すことによって、自分の天職と自身の属するコミュニティーを確認することができた。その後これは本棚に載せたまま何年も再び見ることはなかった。

一方、私は作家として葛藤していた。私は二つの面で葛藤をしていた。私は日系人でありまたは同時に作家として偽りなく、本物でありたかった。ひとりの人間がいる。そしてメデイアがある。その人はメデイアを使って伝える。しかしこの日系カナダ人は誰なのか。この人は自分が表現しなければ自分が何者かということを一体どのようにして知ることができるだろう。白いスペースがある。人は円を描く。何もなかったところに何かが存在する。無と有がつながって芸術の存在となる。アイコ・スズキも自分のアイデンティティを懸命に求めたが。その大部分は否定的なものであった。しかし1987年の頃、日系カナダ人が戦争の時、彼らに何が起こったかをカナダ国民に知らせる運動を起こし、同時にカナダ政府に対して補償を求めた。それは戦争時にカナダ政府が自国の市民に対してとった不当な扱いについて補償を求めるものであった。日系人が目立ち、身をさらす時でもあった。それまで目立たないようにしていた人々が今やアーティストを含めて目立つようになってきた。 1987年の「しかたがない展覧会」(Hamilton Artists Inc によって主催され、Bryce Kanbaraによって主事された)の目録のなかでアイコ・スズキは次のように言った、

「つい最近になって、私は自分が日系カナダ人の女性アーティストであるという現実の自分の遺伝について考えるようになった。あまりに長い年月の間、私は男性、“Boy’s Clubs”からの見下すような態度に失望させられてきた:そしてまた、あまりに長い間私は次のように応えてきた。『もし私の名前がスズキでないならば、それでもわたしの作品を東洋的呼びますか。』と。今私は、時にはかすかに時にはあからさまに『女性』なこと、また『東洋的』なことをアーティストとしての自分を表す自然な言葉として受け入れるようになった」

彼女のコメントは体裁主義の性格に触れていた。何故なら芸術を産みだすことと、それを分類されるのとは全く違う。アーティストはラベルを貼られることを避けたがる。彼らは何よりも人間として見られたいのだ。しかし一旦自分の作品が世に出ると作品とそれを創作したアーティストは一般的な言葉の枠で語られてしまう。

詩人であり、映像アーティストであるRoy Kiyookaはすぐれた言葉を操る詩人の一人である。同時に彼は自分を日系人一匹狼(nip-loner)と称しカナダの芸術家たち(canart-o)の主流をさまよい歩きながら自分自身のことをこのようにうまく表現していた。勿論アイコのように彼は問う、「我々の成功というのは民族的なことへのリップサービス以上に特色はあるのだろうか?」。言い換えれば日系カナダ人であることが何か流行か、または注目を浴びるために利用する手段なのか。それは日系人の名前が掲載されている日系カナダ人芸術家:人名録が彼には「多様文化主義」に「熱い」世界を利用する意図のように見て取れたからである。

私自身はそのような見方を好まない。Kiyookaは結局のところ「孤立主義者(日系人一匹狼)」であったのだろう。日系カナダ人アーティストが、同じ歴史の背景と影響を持つ日系カナダ人との繋がりがないなら、時として非常に淋しい事である。創作活動は孤独を伴うものであろうが、創作したものを受け入れ、鑑賞してくれるコミュニティーが必要である。

アイコの自己変革と本来彼女が持っている能力、つまり繋がりを作りだすという能力がジャンルの違う、または美的感性の違うアーティスト達をひとつにし、人名録を作ることに導いた。いったんこのアイデイアが表面に出ると、このビジョンを実行するための人々が現れてきた。そして日系カナダ人社会はこの人名録に、時が来たとばかりに心を踊らせた。彼らはこれを日系人社会のネットワークに不可欠なツールと見た。日系カナダ人アーティストの名の下に、これは民族中心主義で、さらに「群れた猫」のようにみえるかもしれないが、人々はこのアイデイアのもとに団結した。Bryce Kanbaraはこの様子を人名録の序にこのように書いている。

「個々に奮闘している日系カナダ人に、文脈と意味を与え、日系人社会を再構築する必要がある。カナダ大陸のいたるとこに、我々の共有する遺産とアイデンティティとコミュニィティーの繋がりがあり、それらの中に我々を照らす芸術のきらめきがある…大事なことは, 我々のコミュニティーを人的資源、創作活動、互いの敬意を共有する連帯として見ることである。」

人々は人名録に鼓舞された。そして更に、データーベースと日系カナダ人の人的資源ガイドの資料を集めるというプロジェクトが進められた。人名録にはアーティスト、人的資源ガイド(当ウエブサイトのView onからの参照)が掲載され、また日系カナダ人が自らのアイデンティティを切り開いた経験の記録、日系人資料が掲載されている。その記録の多くはこの人名録に掲載されているアーティストたちによって書かれたものである。

写真

1994年6月16日トロントのメトロホールに100人以上の人々が人名録の出版を世に送り出すために集まった。アーティストたちのこの記念すべき写真がここで撮られた。連帯と祝いの確かな瞬間であった。

そして時は流れて行った。

瞬く間に時は2017年に飛ぶ。 2017年はカナダ建国記念150年であり、日系カナダ人が強制収容されてから75年が経つ。この1994年の写真の中の、または人名録に掲載されたアーティストの中の数人はすでに亡くなった。2005年にはアイコ・スズキが亡くなり、最近では2017年の春にDavid Fujinoが亡くなっている。 そして多くの方々は白髪になりながらも、それぞれジャンルで長年労し、努力し、展覧会、出版、建築、展示会、コンサート、アルバム、フイルムなどに携わって来た。こうしたことがなされていた一方で、若い世代の人々の間では新しくパワフルなツールが普及した。 ー インターネットである。これによってコミュニケーションは瞬時にできるようになった。しかしインターネットは素晴らしいが、反面に浅い。充分に掲載されていないことや欠如していることがある。

全カナダ日系人協会、パウエル祭、並びにトロント日系カナダ人文化協会が人名録をオンラインで再編することを決めた時、その意図には二重の要素があった。デジダルの再編はもとの人名録にすでに載っているアーティストを掲載すると同時に、人名録に掲載されていないアーティストも芸術活動の記録の証拠、いわば足跡があるなら、デジダルの人名録に掲載するという意図である。若い世代の人達がそれらのアーティストの業績を探す前に、まず人名録で閲覧できるようにするためである。同時にデジダル人名録は、もとの人名録が当時の世代に果した同じ役割りを担う。それは現在活動しているアーティストたちに、コミュニティーやネットワークの繋がりを与え、他のアーティストの努力からインスピレーションを得ることである。 アイコ・スズキの最初の人名録がなしたことは日系カナダ人アーティストのコミュニティーを作ることであった。そして今、デジダルの人名録の再編は過去のアーティストを記憶し、また一方新しい世代のために、芸術を更に探っていくことを目的とする。大事なことは過去の記憶のある年配者が今再び集まり、若者が発見していくことを助けることである。今から約25年前にこのビジョンを信じサポートをした同じ基金母体が、今回も同様にサポートしようと強い熱意を示してくれている。それ故に、この新しいデジダル人名録の再編を後世のために、そう、未来のために強く願う!

Sally Ito